経度問題に挑んだ大工ジョン・ハリソンとH4マリン・クロノメーター

経度問題に挑んだ大工ジョン・ハリソンとH4マリン・クロノメーター

18世紀の船は、太陽や星の高さから南北の位置を割り出せました。しかし東西の位置だけは、海の上で確かめる手立てがありません。英国議会が最大2万ポンドを懸けたこの難題に挑んだのが、時計師の修業をしていない大工、ジョン・ハリソンでした。本記事では、彼が30年以上かけて作り上げた海洋時計H4(H4マリン・クロノメーター)が、大西洋を渡ったのちの評価で約5秒という結果を出すまでをたどります。

目次

船乗りは、南北の位置は測れたのに、東西の位置だけは測れなかった

陸が水平線の下へ沈むと、あとは海と空しか見えなくなります。それでも当時の船乗りは、自分がいまどのあたりにいるかを毎日書き留めていました。当てずっぽうで走っていたわけではありません。

ただし、その見積もりには片側だけ大きな穴が空いていました。南北の位置、すなわち緯度は空を測れば求まります。東西の位置、すなわち経度は、空を測っても出てきません[2]。この非対称が、18世紀の航海を長いあいだ縛っていました。

羅針盤と測程索と砂時計で、位置は「見積もる」ものだった

当時の標準的なやり方は、推測航法と呼ばれます。最後に位置が分かっていた地点を起点に、羅針盤で読んだ針路と、船の速さと、経過した時間を掛け合わせて、いまの位置を海図の上に描き足していく方法です[1]

速さは道具で測りました。一定の間隔で印を付けた索を船尾から流し、短い時間用の砂時計が落ちきるまでにどれだけの長さが出ていったかを数えます。この索を測程索といい、読み取った針路・速さ・時間はそのつど航海日誌へ記録されました[2][3]

問題は、その一つひとつに誤差が乗ることでした。風は船を横へ押し流し、海流は目に見えない速さで船を運びます。針路も速力も、読み取った時点でわずかにずれます。しかも推測航法は前の位置に足し算を重ねていく方式なので、そのずれは日を追って積み上がりました[1]

太陽と北極星の高さは、南北の位置を教えてくれた

緯度だけは事情が違います。北半球なら、北極星が水平線から何度の高さに見えるかが、そのまま緯度のおおよその値になります。昼であれば、太陽がその日いちばん高くなったときの高度を測り、暦の表と組み合わせて計算しました[2]

器具は時刻に応じて使い分けます。バックスタッフは、観測者が太陽に背を向け、影を目盛へ落として高度を読む昼専用の道具でした[4][5]。夜の北極星を狙うなら四分儀やクロススタッフを使います[6]。1731年頃に現れたハドリー式八分儀は、鏡で天体の像と水平線を重ねる仕組みで、太陽も月も星も測れるようになりました[3]

経度には、これに相当する手がかりがありません。星の高さのように、見ただけで東西の位置へ換算できる目印が空にないからです。

目的地と同じ緯度まで移り、その線を東西にたどった

そこで実務の一つとして使われたのが、目的地と同じ緯度まで先に南北へ移動し、あとはその緯線に沿って東西へ進むというやり方でした[3][7]。緯度なら毎日測り直せるので、少なくとも一方向のずれは押さえ込めます。

代償は、到着の時期が読めないことです。陸が水平線に現れるのが明日なのか三日後なのかは、積み上がった見積もりに委ねるしかありません。天気が崩れて観測ができない日が続けば、その不確かさはさらに厚くなります。

経度を求める理屈自体は、このころすでにいくつも提案されていました。足りなかったのは理屈ではなく、揺れる船の上で誰が使っても同じ結果になる、繰り返し使える方法だったのです[3]

1707年、シリー諸島沖で艦隊の4隻が失われた

1707年10月22日、イングランド南西のシリー諸島沖で、本国へ向かっていた英国艦隊が岩礁に乗り上げます。失われたのは、アソシエイションを含む4隻[8][9]。一夜のうちの出来事でした。

数日の悪天候で、南北の位置さえ確かめられていなかった

このとき艦隊は、数日にわたる悪天候で天体観測ができない状態にあったと伝えられます[9]。太陽も星も見えなければ、本来なら毎日確かめられるはずの緯度さえ更新できません。東西の位置はもとから見積もりであり、その南北の支えまで一時的に失われていたことになります。

ただし、原因を一つに絞ることはできません。海図の古さ、潮流、視界、そのときの判断が重なっています[8][9]。「経度を間違えたために起きた事故」と一言で片づけると、実際に起きたことの形が変わってしまいます。

犠牲になった人の数は、いまも確定していない

失われた人の数は、1,300人を超えるとも、2,000人近くとも伝えられます[9]。これほどの幅が残るのは、当時の乗員名簿が正確ではなかったためです。

何人が海に消えたのかを、300年たっても確定できません。その一点だけでも、この時代の航海がどれほど記録の薄い営みだったかが分かります。

1714年、英国議会は経度を解いた者に最大2万ポンドを約束した

海難から7年後の1714年、英国議会は一本の法律を通します。海上で経度を求める実用的な方法を示した者へ、国が報酬を支払うという内容でした[10]。最高額は2万ポンド。個人の発明に対して国家が用意した金額として、破格の規模です。

賞金は、精度によって三段階に分かれていた

定められたのは一律の賞金ではなく、精度に応じた三段階でした。経度の誤差が1度(約60海里)以内なら1万ポンド。3分の2度(約40海里)以内なら1万5千ポンド。2分の1度(約30海里)以内であれば、最高額の2万ポンドです[10]

条件は精度だけではありません。試験は机上や沿岸ではなく、英国から西インド方面へ実際に航海したうえで示すこと[10]。長い航海に耐えて初めて意味がある技術だと、法律の側も分かっていたわけです。

法を動かしたのは、海難そのものではなく数年がかりの請願だった

1707年の海難と1714年の法律のあいだには、7年の隔たりがあります。この間を実際につないだのは、ウィリアム・ウィストンとハンフリー・ディットンという二人でした。彼らは1713年から海上で経度を求める案を公表し、議会へ請願します[11]。下院の委員会はこれを受け、アイザック・ニュートンやエドモンド・ハレーといった専門家から意見を聞いたうえで、報酬制度の形を固めていきました[11]

海難が無関係だったという話ではありません。位置を誤ることの代償を国じゅうが知っていたからこそ、請願は受け止められやすくなったとも言えます。それでも「大きな事故が起きた、だから議会が賞金を懸けた」という一本の線で結んでしまうと、7年かけて積み上げられた提案と審査の過程が、まるごと消えてしまいます[12][13]

経度法は「時計で解け」とは言っていない

条文は解き方を指定していません。時計でも、天文学でも、磁気でも、条件の精度を満たせば報酬の対象でした。あわせて、有望な案には研究費を出す権限が委員へ与えられます[10]。これは賞金コンテストであると同時に、研究助成の制度でもありました。

その委員たち、のちに経度委員会と呼ばれる集まりも、専用の研究所や決まった一室を構える組織ではありません。法律が職名で指定した高官・海軍関係者・天文学者・数学者らが、提案を審査し、試験を設計し、支払いを勧告します[15]。残っているのも一枚の証書ではなく、紙の議事録と書簡と帳簿の束です[14]

ここでひとつ、この記事の題にある「2万ポンド」について断っておきます。これは法律が掲げた最高報酬額であって、のちに登場する時計の値段でも、その作り手が受け取った金額でもありません。この数字が最後にどう決着したのかは、記事の後半でもう一度出てきます。

東西の位置は、正確な時刻さえ分かれば計算できた

賞金の対象となった難題は、突き詰めると天文学の問題ではなく、時間の問題でした。基準となる土地の時刻を保つ携帯時計があれば経度は出せる、という発想は、1530年にはすでに書きしるされています[16]。1660年代にはホイヘンスが振り子式の海洋時計を試作し、海上で試したものの、船の動揺に阻まれました[17]

理屈は古く、実物が追いつきません。その状態が200年近く続いていたことになります。まずは、その理屈の中身から見ていきます。

地球は24時間で360度回る。だから時刻が1時間ずれれば15度ずれている

計算そのものは驚くほど単純です。地球は太陽を基準にして24時間で1回転します。360度を24で割れば、1時間あたり15度。4分で1度、時計の1秒でも経度15秒角ぶんが動く勘定になります[16]

だから、二つの時刻を並べれば位置が出ます。船の上で、いまこの場所の正午を観測します。その同じ瞬間に、手元の時計が基準地点の時刻で14時を指していたなら、その船は基準地点から西へおよそ30度の場所にいる、ということです。時計は時刻を知るための道具である前に、位置を知るための道具になりました。

船の上では、その日いちばん高くなる太陽を待って時刻を読んだ

ここで必要になるのが「この場所の正午」です。しばしば「太陽が真上に来た時刻」と説明されますが、それは正確ではありません。太陽が頭の真上を通るのは、熱帯の限られた緯度と季節に限られます。

現地正午とは、太陽がその土地の子午線、つまり北極と南極を結んでその土地を通る南北の線を横切る瞬間、言いかえればその日でいちばん高くなる時刻のことです[2]。船上では正午の前後に何度も高度を測り、同じ高度になる二つの時刻の中点を取るといった手順で、その瞬間を割り出しました[3]。揺れる甲板の上で、目分量だけで決めていたわけではありません。

出航前に測っておくのは、時刻ではなく時計の「狂う癖」だった

そしてもうひとつ、この物語の後半を読むために欠かせない実務があります。出航前、船に載せる時計に対して行われていたのは、時刻を正しく合わせることだけではありませんでした。測っていたのは、その時計が一日にどれだけ進むか、あるいは遅れるかという固有の癖です。これを日歩と呼びます[3]

日歩が分かっていれば、狂いは差し引けます。たとえば一日に0.4秒ずつ進む癖があると分かっていれば、10日後の表示から4秒を引けば基準地点の時刻が読めます。つまり航海用の時計に求められたのは、まったく狂わないことではありません。同じ狂い方を続けることでした。

温度が変わっても、船が傾いても、日歩が昨日と同じであれば計算で戻せます。逆に、癖が日によって変わる時計は、一日あたりの狂いがどれほど小さくても使えません。この一点が、以降の章すべての判断基準になります。

航海中も照合は続きました。太陽の高度から現地の時刻を出し、寄港地の経度が分かっていればその値と突き合わせます[3][7]。時計は船室に置きっぱなしにされる箱ではなく、毎日読まれ、記録され、確かめられる観測機器だったのです。

もう一つの答えは、月を針にして空の時計を読むことだった

基準地点の時刻を知る方法は、時計を運ぶことだけではありません。空にも時計があります。月です。

月は星々のあいだを規則正しく移動していきます。ですから、月と太陽、あるいは月と決められた恒星との角距離を測れば、その角度が「いま基準地点は何時か」を教えてくれます。月を針、星空を文字盤に見立てるこの読み方は、月距法と呼ばれました[18]

机上の案にとどまった話ではありません。経度委員会は月距法にも報奨しています。月の運動表を作ったトビアス・マイヤーの遺族へ3,000ポンド、計算法を寄せたレオンハルト・オイラーへ300ポンドが支払われたとされます[19]。1766年には翌1767年用の『航海暦』が刊行され、3時間ごとの月距の予報値が印刷された表として航海者の手に届くようになりました[18][20]。それまで数時間かかった計算の負担が、大きく減ったのです。

つまり、この難題の答えは一つではありませんでした。海へ機械の時計を持ち込む道と、空の時計を読む道。この二つは競い合いながら、以後数十年にわたって並び立ちます[7]

時計師の修業をしていない大工、ジョン・ハリソンが名乗りを上げた

ジョン・ハリソンは1693年、イングランド北部に生まれました。父は大工で、本人も大工を職業としています[21]。時計師の徒弟修業は受けていません。当時の時計づくりは組合と徒弟制度によって技術が受け渡される世界でしたから、彼は最初からその外側にいたことになります。

20歳のとき、歯車まで木で作った時計を組み上げた

1713年頃、20歳のハリソンは最初の長時計、つまり背の高い箱型の振り子時計を作ったとされます。特異だったのはその材料でした。歯車まで含めて、ほとんどが木でできていたのです[22]。大工の手に馴染んでいた材料が、そのまま時計の材料になりました。この時期の作とされる時計は、いまも博物館に残っています[22]

油を差さなくても動く軸受と、温度で伸び縮みしない振り子

木を選んだのは、金属が扱えなかったからではありません。車輪にはオーク材を、小さな歯車や軸受にはライグナムバイタという硬い木を使っています。この木は樹脂を多く含んで自らすべりを生むため、油を差さなくても動きます[21][3]

潤滑油は時間がたてば粘り、汚れ、季節によって粘度が変わります。時計の狂いの原因そのものです。それを最初から使わないという発想でした。

1720年代には、二つの工夫が形になります。ひとつはグラスホッパー脱進機です。脱進機とは、ぜんまいや重りの力を一定の間隔で刻んで振り子へ渡す部品を指しますが、ハリソンのものは接触部が滑り続けずに小さく跳ねるように動くため、やはり油への依存を減らせました[21][23]

もうひとつはグリッドアイアン振り子でした。膨張率の違う金属棒を交互に組み合わせ、温度で一方が伸びるぶんを他方の縮みで打ち消し、振り子の実効的な長さを変えない仕組みです[23]

摩擦と温度。この二つの敵に対する構えは、この段階ですでにできあがっていました。ただし、陸の振り子時計で培われた補償の仕組みが、そのまま海の時計へ移されたわけではありません。移されたのは部品ではなく、温度を設計に織り込むという姿勢のほうです。

ロンドンで彼を後押ししたのは、王室天文官と当代一の時計師だった

1730年頃、ハリソンは海洋時計の構想を携えてロンドンへ向かいます。そこで彼が助言を得たのが、当時の王室天文官エドモンド・ハレー、ハレー彗星に名を残すあの天文学者でした。ハレーはこの構想を退けず、ロンドンで当代一と評された時計師ジョージ・グラハムに引き合わせます。グラハムは競合しかねない案を潰すこともできる立場でしたが、ハリソンへ資金を援助したと伝えられます[21][3]

「無名の孤独な天才」という言い方は、この時点ですでに正確ではありません。地方の大工が、王立の天文台とロンドン時計業界の中心から後ろ盾を得ています。彼の30年は、閉じた作業場ではなく、この支援関係の上で進みました。

揺れる船の上で狂わない時計を作るのに、彼は20年以上を費やした

支援を得たハリソンが最初に取りかかったのは、船室に据える大きな機械でした。彼はこのあと4台の海洋時計を作ります。いまH1からH4と呼ばれるこれらの名は、後世に区別のためつけられた整理名で、当時は単に「海の時計」「その時計」と呼ばれていました[24]

振り子は、船が傾いた瞬間に基準を失う

そもそも、なぜ既存の時計では足りなかったのか。陸上でもっとも正確だったのは振り子時計です。しかし振り子は重力で往復するため、船が傾き、波で上下に揺すられるだけで、振れ方の基準が崩れます[17]。海に持ち出した瞬間、いちばん頼れる時計がいちばん頼れなくなるわけです。

ばね仕掛けの時計にすれば傾きの影響は減りますが、別の敵が現れます。温度が変わればばねと金属部品が伸び縮みし、潤滑油は寒さで粘り暑さで流れ、姿勢が変われば接触部の摩擦が変わります[23]。いずれも一日あたり数秒という規模の話です。

それでも致命的でした。狂いの大きさではなく、癖そのものが日によって変わってしまうからです。日歩が定まらなければ、補正のしようがありません。

湿気や潮の塩分も、長い航海では腐食や潤滑の問題になります。ただし、ハリソンが正面から取り組んだのは、揺れと温度と摩擦の三つでした[3]

最初の海洋時計は、重さ34キロの真鍮の機械だった

1735年頃に完成した最初の1台は、懐中時計とは似ても似つかない姿をしています。高さ620ミリ、幅680ミリ、奥行450ミリ。重さは約34キロの真鍮の枠組みで、機構がむき出しです[25]

中央には棒状のてんぷ、つまり時計の速さを決める振動体が左右に一対で向かい合い、ばねで結ばれてたがいに逆向きに振れます。片方が船の動きで押されても、もう片方が逆に押されることで影響が打ち消されます[25]。振り子を捨て、揺れを機構そのもので相殺しようという設計でした。

1736年、この機械はリスボンへの往復航海で試されます。結果は有望と評価され、ハリソンは研究を続けるための資金を得ました[21]

2台目は、自分で欠陥を見つけて海に出さなかった

続く2台目は、より強く、より大きく作られました。高さ686ミリ、重さ40キロ。ぜんまいの力を均一に伝えるためのルモントワールという機構まで備えています[26]。ところが、これは外洋試験に出ていません。船が旋回するときの運動が、あの左右一対のてんぷに誤差を生むことに、ハリソン自身が気づいたからです[26]

止めたのは外部の誰かではなく本人でした。折しも戦争で試験船を出しにくい事情も重なっています。動く完成品を工房に残したまま、彼は次の設計へ移りました。

3台目に19年をかけて、それでも狙った精度には届かなかった

3台目には、1740年頃から1759年頃まで、およそ19年が費やされます[27]。棒状だったてんぷは円形に改められ、膨張率の違う二種類の金属を貼り合わせて温度変化で曲がるバイメタル、保持器のついたローラー軸受といった新しい機構が投入されました[27][23]

それでも、狙った精度には届きません。とはいえ、これを失敗作と呼ぶのは正確ではないでしょう。バイメタルもローラー軸受も、以後の機械に残り続ける発明です[27]。行き止まりになったのは部品ではなく、「船室に据える大きな機械を改良し続ければ答えに届く」という方針のほうでした。

ハリソンは巨大な機械をあきらめ、懐中時計の大きさへ引き返した

20年以上を大きな機械に注いだ人が、そこで正反対の方向へ舵を切ります。目指す先は、船室に据える機関ではなく、両手で持てる大きさの時計でした。

きっかけは、自分のために作らせた一個の懐中時計だった

転機になったのは、1752年から53年頃に、ハリソンが自分のためジョン・ジェフリーズという時計師へ作らせた一個の懐中時計だったと考えられています[28]。設計にはハリソン自身の考えが反映されており、これが予想を超える精度で動きました。

小さい時計は大きい時計より不正確である、というのが当時の常識でした。手元の一個が、その常識は絶対ではないと示したことになります。

揺れに耐えるのではなく、速い鼓動で揺れをならす

では、なぜ小ささが不利にならなかったのか。鍵は速さでした。

大きなてんぷがゆっくり振れる時計では、船の一揺れがその一振りをまるごと乱します。ところがてんぷが速く振れていれば、同じ揺れは何回もの振動に分散され、平均されて薄まります。H4のてんぷは、およそ毎秒5回の速さで振動しました[29][30]。揺れに耐えるために質量を増やすのではなく、速い鼓動で揺れをならす——発想の向きが反転しています。

これを成立させるため、接触部にはダイヤモンドとルビーが使われ、温度変化に対する補償が組み込まれ、ぜんまいの力を一定に保つための鎖引きフュジー、つまりほどけるにつれて弱まる力を円錐形の滑車で釣り合わせる機構が用いられました[29][30]。いずれも当時の高級懐中時計の技術と地続きです。H4は無から生まれた単独の発明ではなく、既存の精密時計づくりの上に「揺れる船」という条件を乗せた設計でした。

直径13センチ、重さ1.45キロの銀の時計

1759年頃に完成した4台目は、文字盤の直径がおよそ10センチ、ケースを含めると13センチほど。重さは約1.45キロです[29]。銀の二重ケースに収められ、白いエナメルの文字盤に黒いローマ数字と分の目盛が並びます。姿は懐中時計そのものですが、片手でポケットから引き出すような代物ではなく、両手で扱う大きさと重さでした。

34キロの真鍮の機関から、この銀の時計へ。20年以上の道のりの果てにたどり着いたのは、出発点の反対側だったのです。

完成した時計は、息子の手でジャマイカへ渡った

1761年の晩秋、ポーツマス。海軍の艦デプトフォードに、一人の男とその時計が乗り込みます。ジョン・ハリソンの息子、ウィリアム・ハリソン。行き先はジャマイカでした[21]。1714年の法律が定めた「英国から西インド方面への実航海」という条件を満たすための試験です。

父ではなく息子が運んだ理由は、記録に残っていない

作った本人は乗っていません。ジョン・ハリソンはこのとき68歳前後でした。高齢だったから息子が代わった、という説明を目にすることがありますが、そのように書き残した当時の文書は見つかっていません。

分かっているのは、H4の管理者としてウィリアムが選ばれ、彼が航海へ同行したという事実だけです[21]。理由が空白のまま残っています。それも記録というものの、ひとつの姿です。

毎日決まった時刻に、箱を開けて巻き上げた

H4は保護箱に収められて船室に置かれ、毎日決まった時刻に開けられました。ぜんまい式の時計は巻かなければ止まります。巻き上げ、表示を読み、記録します。この手順が航海のあいだ繰り返されたと伝えられます[3]

航海そのものについて、確かなことは多くありません。晩秋の英仏海峡を抜けてカリブ海へ向かう航路ですから、船が置かれる気温と湿度は道中で大きく変わります。ただし、その日その日の天候や船内の様子を伝える記録は残っていません。分かっているのは、約81日という往路の長さと、その終わりに行われた照合の結果です。

約81日の往路を終えて、補正後のずれは約5秒だった

ジャマイカに着いた一行がしたのは、時計の針を覗き込んで驚くことではありませんでした。行われたのは計算です。

まず、到着した土地の経度を天文観測で確かめます。次に、出航前に測っておいた日歩、すなわち一日あたりの進み・遅れの癖を、約81日ぶん適用します。そのうえで、H4が示した時刻と、あるべき時刻とを突き合わせます。こうして得られた評価が、約5秒の遅れでした[3][7]

この数字は、意味を正確に受け取る必要があります。「81日のあいだ、時計がまったく狂わなかった」という意味ではありません。H4は狂いました。

ただし、その狂い方は出航前に測ったとおりの、規則的で予測できるものだったのです。だからこそ差し引けました。航海用の時計に求められたのは狂わないことではなく狂い方が分かっていることだと先に書いたのは、この一点のためです。

時計の5秒は、経度にすると約1分15秒角、赤道付近の距離でおよそ1.25海里に相当します。法律が最高報酬の条件とした2分の1度、約30海里と比べれば桁違いに小さい値です[10]。ただしこれは時計の誤差を距離へ換算した数字であって、船の位置全体の誤差がそれだけだったという意味ではありません。

結果を出しても、賞金はすぐには支払われなかった

物語がここで終われば、きれいな話です。実際には、この結果が最終的な決着へつながるまでに、さらに10年以上かかりました。

委員会は「証明として不十分」と判定し、2度目の航海を求めた

1762年、経度委員会はこの航海を、経度決定の証明としては不十分であると判定し、あらためて試験を行うよう求めます[3]。判定の理由を詳しく書き残した記録は残っていないため、委員たちが何を考えていたのかを推し量ることはできません。

2度目は1764年でした。ウィリアムがH4を携え、艦タータルでバルバドスへ向かいます。約47日の航海の評価は、時刻にして約39.2秒、経度に換算しておよそ9.8分と広く報告されています[3][24]。法律が2万ポンドの条件とした30分を、これも大きく下回る数字でした。

求められたのは、分解して見せることと、他人が同じものを作れることだった

それでも、支払いは一度には行われませんでした。委員会と議会が条件として付けたのは、性能をもう一度示すことではなく、方法を開くことだったからです。H4を分解して仕組みを説明すること。図面を刊行すること。そして、ほかの時計師が同じものを作れると示すこと[21][14]

ここには二つの理屈が並んでいます。作った側からすれば、示すべき性能はすでに二度示しました。

制度の側からすれば、国費で買うのは秘密の一品ではなく、誰でも再現できる方法でなければなりません。どちらの言い分にも筋が通っています。1714年の法律が「解いた」の中身を細かく書いていなかったことが、この隔たりを長引かせました。

1767年には、H4の構造を図版付きで説明した『ハリソン氏の時計の原理』が刊行されます[30]。発明することと、他人が再現できる形で証明すること。この二つは同じではない、という違いが、ここではっきり形になりました。

妨害者を探すと、支払いが遅れた理由を読み違える

一連の経緯は長らく、「一人の職人を、嫉妬した天文学者と役人たちが阻んだ」という物語として語られてきました。名指しされてきたのは、月距法の推進者だったネヴィル・マスケリンです。

そこで、事実をひとつ置いておきます。マスケリンが王室天文官としてグリニッジに着任したのは1765年でした[18][31]。最初のジャマイカ航海が不十分と判定された1762年の時点で、彼はまだその職に就いていません。判定を下した委員会は、別の顔ぶれだったのです。

利害の対立がなかったという話ではありません。彼は月距法の側の当事者であり、H4の評価にも関わりました。

同時に彼は、バルバドスで比較の基準となる経度を観測し、H4の原理を説明する書物の刊行にも名を連ね[30]、『航海暦』を整えて月距法を実務で使えるものにしています[18]。独立した基準の観測と、再現できるかどうかの審査は、制度の側が担うべき仕事でもありました。近年の研究は、この経緯を個人の悪意ではなく、発明者と制度のあいだの摩擦として描き直しています[15][13]

悪役を立てれば話は分かりやすくなります。ただしその読み方では、なぜ公開と複製が要求されたのかを説明できなくなります。

受け取った総額は約2万3千ポンド。それでも「賞金」ではなかった

1772年、ハリソンは新たに作ったもう一台の時計を、国王ジョージ3世の私設天文台があったキューで試験しました。ここで国王の支持を得たことが、翌1773年の議会への働きかけにつながったとされます[3]。同じ年、議会は別建ての法律によって8,750ポンドの支給を決めました[32]

ハリソンが生涯に受け取った額は、研究の過程で受けた助成やその後の支払いを含め、一般に総額約2万3千ポンドとされます[32][33]。資料によって幅はありますが、法律が掲げた最高額の2万ポンドを上回る金額です。

それでも彼は、1714年法の2万ポンド賞を受け取った人物ではありません。最後の8,750ポンドは、委員会の審査基準を満たしたことによる報酬ではなく、議会が別に通した法律にもとづく給付でした[33]。この記事の題にある「2万ポンド」は、時計の値段でも受領額でもなく、法律が掲げたまま、ついに賞として渡されることのなかった数字です。

海の上の常識が変わるまでには、そこから数十年かかった

H4は難題を解きました。ただし、解けたその日から世界の海図が書き換わったわけではありません。この技術が海の上の当たり前になるまでには、まだ長い時間が必要でした。

複製を一台作るのに、2年と450ポンドかかった

委員会の求めに応じてH4の複製を任されたのは、時計師ラーカム・ケンドールです。完成したK1は1769年頃。要した時間はおよそ2年、費用は450ポンドでした[34]。他人にも作れることは示されましたが、同時に、一台作るのに2年と450ポンドかかる時計であることも示されたわけです。

このK1は、1772年から75年にかけてのジェームズ・クックの2度目の航海でレゾリューション号に積まれ、高い評価を受けます[34][35]。ただし、この航海で天文観測が捨てられたわけではありません。時計は複数ある記録の一つとして、観測と突き合わせながら使われました。

月を読む方法は、その後も長く使われ続けた

月距法も消えていません。時計はまだ高価で、止まることも狂うこともあります。空の時計は、機械の時計を独立に確かめる手段として使われ続けました。両者が並び立った期間は、数十年に及びます[7][20]

海洋時計が値を下げ、数を増やすのは18世紀後半以降のことです。ジョン・アーノルドやトマス・アーンショウらが機構を単純化し、分業で作れる形へ整えていきました[7]。同じころ、フランスのピエール・ル・ロワやフェルディナン・ベルトゥーも、独立して重要な海洋時計を作ったとされます[36]

このことは、ハリソンの功績を小さくするものではありません。ただし、その功績は「最初に思いついた」ことではないのです。時計で経度を出すという着想は1530年に書かれています[16]。彼が最初に成し遂げたのは、その着想を海の上で実際に使える精度まで届かせることでした。

正確な時計が位置を教えるという発想は、いまも空の上で使われている

基準となる時刻をどこに置くかという問題は、ハリソンより前から国家の課題でした。グリニッジの王立天文台が1675年に設けられたときの目的にも、海上の経度決定に役立つ天文表と恒星位置の改善が含まれています[37]。そのグリニッジが世界共通の基準線として選ばれたのは、1884年の国際子午線会議でのことでした[38]。二つの出来事のあいだには200年以上があり、H4はその途中の一点に位置しています。

完成した時計の仕組みは、現代の腕時計には残っていない

いま多くの機械式腕時計が使っているのはレバー脱進機と呼ばれる別系統の機構で、H4の構造がそのまま受け継がれたものではありません[39]。H4の部品が現代の腕時計の中で生き延びている、という話ではないのです。

受け継がれたのは、時計の狂い方を測って記録するという習慣だった

残ったのは、部品ではなく課題の立て方でした。携帯できる大きさのまま、温度が変わっても、姿勢が変わっても、摩擦があっても、同じ速さで動き続けさせます。これは18世紀の海洋時計の課題であり、そのまま現代の腕時計の設計課題でもあります。

もうひとつ残ったのが、日歩という考え方です。時計の性能を一日あたり何秒という形で表し、姿勢や温度を変えながら測って記録します。そうした検定の文化は、狂わない時計を選び出すためではなく、狂い方の分かっている時計を見分けるために磨かれてきたと言えます[39]

いま私たちが位置を知るために使っている衛星測位も、正確な時刻を位置へ変える仕組みです。ただし、計算の中身は同じではありません。海洋時計法が求めたのは、現地の太陽時と基準地点の時刻との差を1時間15度の割合で角度へ換算することでした。

衛星測位が解いているのは、複数の衛星から届く電波の到達時間から求めた距離の連立方程式です[40][41]。母港との時差を計算しているわけではありません。同じ計算の直系ではなく、同じ発想の遠い親戚と言ったほうが実態に近いでしょう。

それでも、共通していることが一つあります。時間を正確に測ることが、そのまま自分の居場所を知ることになる、という一点です。18世紀の船が銀の時計を箱へ収めて海を渡ったのも、いま頭上を回る衛星が原子時計を積んでいるのも、突き詰めればそのためでした。

あなたの腕時計に記された一日あたりの精度は、H4の子孫ではありません。ただ、時計の正確さを「どれだけ狂わないか」ではなく「どれだけ同じ狂い方をするか」で語る習慣は、東西の位置が分からない海の上で、確かめようのない現在地を確かめるために鍛えられたものです。時計が正確になったから位置が分かるようになったのではなく、位置を知る必要が、時計を正確にしたのでした。

本記事は、グリニッジ王立博物館(Royal Museums Greenwich)の収蔵品記録と解説、英国議会の経度法条文、経度問題の専門書などをもとに構成しています。当時の情景の一部は、資料に基づく再構成です。人物の会話や心情は書いていません。

  • 「約81日で約5秒」は、出航前に測った時計固有の進み・遅れ(日歩)を補正したうえでの試験の評価値であり、無補正の累積誤差ではありません。算定に用いられた日歩の測定期間や、比較したジャマイカの経度といった細部は、ケンブリッジ大学図書館が公開する経度委員会文書に当たらなければ確定できないため、本記事では算式を示していません。またこの数値は、H4を所蔵するグリニッジ王立博物館の解説ページには記載がなく、専門書等で広く引用されている値です。
  • この航海の出航日・到着日として広く引用される日付と「約81日」は、単純計算では整合しません。そのため本記事では日付を書かず、「1761年の晩秋に出航」「約81日の往路」としています。
  • ハリソンが受け取った総額は、資料により約2万2千〜2万3千ポンドと幅があります。また、1714年法の賞金を一括・正式に受け取った形ではありません。

参考資料

  1. Encyclopaedia Britannica「Navigation — Dead reckoning」(2026年7月25日参照)
  2. Royal Museums Greenwich「How did sailors navigate by the stars?」(2026年7月25日参照)
  3. Richard Dunn and Rebekah Higgitt『Finding Longitude: How Clocks and Stars Helped Solve the Longitude Problem』(Collins/Royal Museums Greenwich・2014年)
  4. The Mariners’ Museum and Park「Back Staff」(2026年7月25日参照)
  5. Encyclopaedia Britannica「Backstaff」(2026年7月25日参照)
  6. The Mariners’ Museum and Park「Quadrant」(2026年7月25日参照)
  7. Derek Howse『Greenwich Time and the Longitude』(Philip Wilson/National Maritime Museum・1997年)
  8. The Linda Hall Library「Cloudesley Shovell — Scientist of the Day」(2026年7月25日参照)
  9. World History Edu「What Was the Scilly Naval Disaster of 1707?」(2026年7月25日参照)
  10. Royal Observatory Greenwich「Transcript of the 23 Longitude Acts」(1714年経度法の条文を含む・2026年7月25日参照)
  11. The History of Parliament Trust「Finding latitude in longitude: Parliamentary funding of early modern science and technology」(2014年7月3日)
  12. Mobbs「The Longitude Act of 1714 and the Last Parliament of Queen Anne」Parliamentary History(Wiley・2016年)
  13. American Scientist「The British Longitude Act Reconsidered」(2026年7月25日参照)
  14. Cambridge Digital Library, Cambridge University Library「Board of Longitude Collection」(経度委員会の議事録・書簡・会計の原本画像・2026年7月25日参照)
  15. University of Cambridge/National Maritime Museum「Board of Longitude research project」(2010〜2015年・2026年7月25日参照)
  16. MacTutor History of Mathematics, University of St Andrews「Longitude and the Académie Royale」(ゲンマ・フリシウス1530年の提案を含む・2026年7月25日参照)
  17. National Museums Scotland「Calculating longitude at sea: the clock that tried to solve the problem」(ホイヘンスの海洋時計・2026年7月25日参照)
  18. Royal Museums Greenwich「Longitude found: Nevil Maskelyne and the lunar method」(2026年7月25日参照)
  19. teleskopos「Tobias Mayer」(経度委員会からマイヤー遺族・オイラーへの支払い・2026年7月25日参照。**単一系統の記述のため本文では「とされます」としている**)
  20. HM Nautical Almanac Office/UK Hydrographic Office「History of HM Nautical Almanac Office」(2026年7月25日参照)
  21. Royal Museums Greenwich「Longitude found – the story of Harrison’s timekeepers」(2026年7月25日参照)
  22. Science Museum Group Collection「Earliest known eight-day longcase clock movement by John Harrison」(2026年7月25日参照)
  23. Chemistry World「Harrison’s bimetallic strip and the problems with temperature control」(2026年7月25日参照)
  24. William J. H. Andrewes 編『The Quest for Longitude: The Proceedings of the Longitude Symposium, Harvard University』(Harvard University・1996年)
  25. Royal Museums Greenwich 収蔵品「Marine timekeeper, H1(ZAA0034)」(2026年7月25日参照)
  26. Royal Museums Greenwich 収蔵品「Marine timekeeper, H2(ZAA0035)」(2026年7月25日参照)
  27. Royal Museums Greenwich 収蔵品「Marine timekeeper, H3(ZAA0036)」(2026年7月25日参照)
  28. Quill & Pad「Derek Pratt’s Reconstruction Of John Harrison’s H4」(ジェフリーズ・ウォッチとH4への影響・2026年7月25日参照)
  29. Royal Museums Greenwich 収蔵品「Marine timekeeper, H4」(文字盤径102mm・全体165×124×28mm・重量1.45kg・2026年7月25日参照)
  30. Nevil Maskelyne『The Principles of Mr Harrison’s Time-Keeper, with Plates of the Same』(Commissioners of Longitude・1767年。**同時代の公式技術説明であり、執筆上の立場に留意が要る**)
  31. MacTutor History of Mathematics, University of St Andrews「Nevil Maskelyne」(2026年7月25日参照)
  32. Office for National Statistics「Valuing John Harrison’s work – how much is that £20,000 longitude reward worth today?」(2020年1月17日)
  33. teleskopos「There was no such thing as the Longitude Prize」(2014年5月15日・Derek Howse による経度委員会の財務研究を引用)
  34. Quill & Pad「Larcum Kendall And K1」(2020年7月5日)
  35. National Library of Australia「James Cook journals, second voyage」(1772〜1775年の原記録・2026年7月25日参照)
  36. SciHi Blog「Ferdinand Berthoud and the Marine Chronometer」(2026年7月25日参照)
  37. Royal Museums Greenwich「History of the Royal Observatory」(2026年7月25日参照)
  38. Royal Museums Greenwich「What is the Prime Meridian and why is it in Greenwich?」(2026年7月25日参照)
  39. Time and Tide Watches「How chronometers went from ships to wrists」(2026年7月25日参照)
  40. National Coordination Office for Space-Based Positioning, Navigation, and Timing(米国政府)「GPS: The Global Positioning System」(2026年7月25日参照)
  41. NOAA National Ocean Service「Global Positioning Tutorial: How does GPS work?」(2026年7月25日参照)

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この記事を書いた人

ロレックスを中心に高級時計を追い続けるウォッチ愛好家。各ブランドの歴史やモデルの変遷、中古で選ぶときのポイントまで幅広く調べ込み、公式情報と実際の市場をもとにした正確な解説を心がけています。魅力だけでなく注意点も率直に伝えることを信条としています。

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